この作品は、原作がピューリッツァー賞に輝いたアリス・ウォーカーで、オリジナル版は、スティーヴン・スピルバーグ監督の初めてのシリアスドラマでした。第58回アカデミー賞で、作品賞、助演女優賞(2人)など、10部門(11人)で候補に挙がったのに、結果的には無冠に終わりましたが、私はワーナー在職時代にこの作品に巡り合い、スピルバーグの人間を見る温かい目に、深く感動したものでした。
その作品が38年を経て、新たにミュージカルとしてリメークされ、2月9日公開前の厳選試写を礒川さんと2人で見ることができました。
この原作は、1986年に映画公開されたあと、ステージ・ミュージカルとして公演を重ね、今回、それを基礎にミュージカルとして再映画化されたものです。このリメークにはスピルバーグも積極的に後押しして、他の3人と共に今回は製作者になりましたが、3人の中には、前回に続いて映画音楽でも知られるクインシー・ジョーンズ、そしてなんと前作ではソフィアを演じてアカデミー助演女優賞にノミネートされたオプラ・ウィンフリーも入っています。
今回の監督は、ガーナ出身のブリッツ・バザウーレで、ミュージシャン、作家、ビジュアル・アーティストでもある彼の、音楽や映像効果の才能は、この作品でもいかんなく発揮されています。
物語は、1909年に始まり1947年までの38年間にわたるアメリカ版“大河ドラマ”で、セリーとネティの黒人姉妹が、女性の権利を一切認めないセリーの暴君の夫によって様々な虐待を受けながらも、たくましく生きていき、長い間消息の途絶えていた二人が、最後に夢の再会を果たすというもので、大筋においては前作と同じです。前回のウーピー・ゴールドバーグに代わって今回セリーを演じるのはファンテイジア・バリーノ。ステージ版でもセリーを演じ、他の持ち歌でグラミー賞も獲得した歌唱力はすばらしいものでした。その他、ネティ役のハリー・ベイリー(「リトル・マーメイド」のアリエル役)、シュグ役(映画の中の発音に合わせ、前回の「シャグ」から表記が変わりました)のタラジ・P・ヘンソン、ソフィア役のダニエル・ブルックス、“ミスター”ことアルバート役のコールマン・ドミンゴ(前回はダニー・グローヴァ―)などで、黒人映画の少ない日本ではあまり知られていませんが、いずれも俳優、ミュージシャンとして、アメリカでは有名な人たちです。
ミュージカル版を観終わって、一口で感想を言えば、前作に勝るとも劣らない「感動」でした。一般的に、リメークが前作を超えることは少ないのですが、この作品は、ミュージカルという新しい要素が加わったことと、クリスチャン的には、前作よりも福音のメッセージがより明確に出ていることが特長です。
今回のミュージカル・リメーク版で、改めて考えさせられたのは、次のようなことでした。
(1)“差別”は人間の罪の根源:
私たちは、アメリカの人種差別というと、まず白人の黒人に対するものと考えますが、この映画には、白人は市長夫人1人しか出てきません。あとは全て黒人で、黒人同士の間で、あからさまな差別と虐待が繰り広げられることに、正直驚きます。端的に言えば、人種や性差や社会的身分などにかかわらず、あらゆる人間の中に“差別”は存在するということ。それは自分を他者より優れているとする心で、これこそは人間の罪の根源です。
①性差別:男⇒女(性の暴力、DV)。セリーの父親(実は育ての親)⇒セリーへの近親相姦と出産、さらには一方的な赤子の隔離と人身売買。嫁いだ相手ミスターによる人格無視とDV。聖書で、最初に罪を犯したアダムとエバに対する神様の裁きの言葉を思い出します。
(創世記3:16)「私は、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
②人種差別: 白人市長夫人⇒黒人反抗者ソフィーへの虐待と長期懲役。
③律法主義的差別:義人・聖人(シュグの父親・牧師)⇒罪人(娘シュグ。ミスターの元愛人で酒場歌手)。父の愛を求めて得られず酒場のシンガーになった娘シュグと、その謹厳さと善良さのゆえに、娘を受け入れられない牧師の父との関係は、「エデンの東」の父と息子の関係に似ています。
(2)迫害の中で美しく育まれる人間愛:
約40年にわたる強者⇒弱者の権力、暴力による差別・抑圧の中で、女性たちを耐え抜かせる力となったのは、美しくも不屈のシスターフッド(姉妹愛)でした。夫のミスターが妹ネティからの手紙を姉セリーに隠して見せなかったため、40年間も音信不通だったのに、二人の姉妹愛は、決してなくなりませんでした。
この姉妹愛は、この血を分けた二人にとどまりません。夫のミスターから、長年にわたって「ブスで不器用な料理下手で、何一つ取り柄のない女」と言われて虐待され、本当の自分を見失い、夢も希望もなくしていたセリーに、一人の人格を持った女性として、強くたくましく生きる勇気を与えてくれたのは、「あなたはすばらしい」と励まし続けたシュグの愛があったからでした。また市長夫人の強制投獄で、すっかり気力を失ってしまったソフィアに再び高らかな笑いと生気を取り戻させたのは、男たちへのセリーの毅然とした態度でした。人は、良き友があってこそ、逆境の中でも真の自分の存在価値を見いだし、そのさらなる追求を目指して生きる力を取り戻せるのです。
(3)和解と悔い改めの美しさ:
①牧師の父と娘シュグの和解(上記(1)-③参照):
前作の、教会(聖の世界)の礼拝での賛美歌と酒場(俗・罪の世界)での恋愛歌の2つの歌の群れが、神の教会の中で1つになる中でなされた、牧師の父と放蕩娘シュグのハグによる“和解”が、今回は、教会の中での二人だけで、父のピアノで娘がゴスペルを歌い、娘は父の胸に涙ながらに顔をうずめる、というシーンになって、神と人との赦しと和解を象徴する美しさを前作よりも際立たせています。
②夫ミスターの回心:
妻セリーが彼のもとを去ったあと、独りで作物を作っていたミスターの広大な畑に害虫が発生し、駆除のために全作物を燃やした彼は、収穫を全て失ってしまいます。そして絶望して土砂降りの雨の中を歩くうち、落雷の恐怖の中で、これは長年のセリーに対する自分の態度に対する神の怒りの裁きだと気づき、悔い改めます。
(あの「アメイジング・グレイス」誕生のもとになった、作者ジョン・ニュートンの嵐の海の奴隷船での回心を思い出します。)彼は、泥の中に体をうずめながら、「改める!」と何度も絶叫するのです。その言葉は、聖書的に言うなら「悔い改める」ということです。そのあとの変わりようが、、まるで「クリスマス・キャロル」のスクルージのようで、彼は別人のような優しい男になります。そして、セリーの妹ネティの一家がアフリカから戻るための渡航費用を、自分の土地の一部を売って用立ててあげるのです。こうしてセリーは、40年ぶりに妹ネティと、また出産と共に取り上げられた2人の我が子との再会を果たします。
前作では、彼は、再会した姉妹の喜ぶ姿を遠くから眺め、立ち去るのですが、今回の彼は、洋装店を開いたセリーの店を訪れて、売り上げの足しにと派手なパンツを買うだけでなく、セリーたちの愛餐会にも顔を出し、妹一家の招待計画まで知らせます。ここは前作のほうが“味”があるとも思いますが、今回、監督は、多くの女性が重要な役割を果たす中で、1人、このミスターに、前作より大きな役割を担わせています。それは、どんなに極悪非道な人間でも、神の前に悔い改めれば、あの「やり直しの力 -マリガン―」のポールのように、必ず人生を“やり直す”ことができることを語りたかったからです。そして「真の悔い改めはその実を結ぶ(償いの行動が伴う)」という聖書の真理を、クリスチャンだけでなく全ての観客に、スクリーンでも明らかにしたかったに違いありません。
(4)人生は神の御業の働くステージ:
こうして映画は、再会した姉セリーと妹ネティの一家、そしてセリーの2人の子どもとその子たち(セリーの孫)を囲む親しい人々の宴の、喜びの賛美でラストを迎えます。一同が手を取り合って、自然を創られ人に生きる希望を与えてくださる神を褒めたたえるシーンは、さながら主イエスを囲む天国の愛さんの前味です。そこで歌われる賛歌は、「花よ、鳥よ、太陽よ、月よ」と呼びかけたアッシジのフランチェスコの詩をメロディーに乗せて聴いているようでした。
2 時間21分の映画を観終わってみると、人間一人一人の人生とは、究極的に、“神の御業の働くステージ”ではないのかと思わされました。映画の中で、前半では「♬神の御業が働く」と歌われ、ラストでは「♬神の御業が見える」と歌われます。苦しいことも、悲しいことも、全ての人間の営みの背後には、神の御業がご計画のとおりになされている。そして人がひとたびそのことに気づくと、私たちには神様の御業がはっきりと見えるようになるのです。それは、まさしくこのみ言葉のとおりです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
その時、セリーも、ネティも、シュグも、ソフィアも、そして観ている私たちも、主を仰いできっとこう言うと思うのです。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 (詩篇119:71)
下記に前作と新作の予告編URLを載せておきます。皆様もまずは劇場に足を運び、これを機に前作も観て、2倍に楽しんでみませんか?
1986年版
2024年版
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