1980年に大学を卒業した後は、ワールド・ワイド映画(ビリー・グラハム伝道協会の映画部門)に勤めました。松竹映画と共同製作した三浦綾子原作「塩狩峠」などの伝道映画をもって2週間ほど、毎日教会を巡回映画伝道し、宿泊は教会の礼拝堂か母子室、昼間は教会を訪問しての営業活動をしていました。 さて、「塩狩峠」は、主人公の永野信夫(モデルは長野政雄氏)青年が、暴走する列車に身を投げ出し乗客の命を救ったストーリーで、セリフまで覚えてしまうほど上映しました。ラストシーンが強烈なのでどうしても皆様の注目を集めるのですが、私にとっては、もう一つ印象的なシーンがあります。
札幌で鉄道に勤務していた永野信夫青年は、給料を盗んだ同僚の三堀を自首させようとして断られ、意気消沈して自宅に戻る途中で、外套も着ないで大声で叫んでいる一人の男に出会います。 「わたしは、この神なる人、イエス・キリストの愛を述べ伝えようとして、ここで叫びましたが、だれも耳を傾けませんでした」
彼は伊木一馬伝道師で、東京から来て雪が深々とふる中で、10日間路傍伝道をしていたのです。この路傍伝道のシーンは、故安藤仲市牧師が指導しただけあって、本当に緊迫した演技です。
聞いていた子供たちが、「ヤソ坊主だ」と石を投げつけますが、伊木師の「彼らをお赦しください」と祈り赦す姿に感動した永野青年は、「イエスを神の子と信じます」と告白します。
そこで伊木一馬師は、「やりました。10日間で初穂です。洗礼を受けなさい。これで宣教報告ができる」と喜んだでしょうか。そうではありません。彼は質問します。「誰がイエスを十字架にかけたと思いますか」。
答えられない永野青年に「きみですよ」と伊木師は問いかけます。驚いた永野青年は、「自分はイエスを十字架にかけた覚えはない」と主張します。
「それでは、君はキリストとは何の縁もない人間ですよ」と伊木伝道師、さらに続けます。「永野くん、これは僕が試みたことなんだが、聖書のことばを徹底的に実行する。そうすれば、あるべき姿に自分がいかに遠い存在かを知るんじゃないかな」と言って帰してしまうのです。
それは、マタイの福音書にあるイエスに自分の正しさを主張した青年が、悲しみながら立ち去っていく聖書の箇所に似ていませんか。
「罪」という問題をその人が分かるまで待つ。その忍耐の必要性と「神を信じる」だけでは不十分で「罪の悔い改め」こそが、キリストの重要なメッセージだとこのシーンは伝えている気がします。 永野青年は、「罪」への理解、そして「十字架」と「復活」が自分ためだとわかり洗礼を受け、愛の実践として人々を救うのです。
イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」。 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。 多くの財産を持っていたからである。 (マタイ19:21-22)
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